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2009年04月

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It's finished.


DSCN9061.jpg



「5,000トンのミドリムシで1つの火力発電所が1日に出す二酸化炭素を吸収できる」


電車のモニターに映し出されたうんちくをぼんやり眺めながらミドリムシの体重を考えて。
例えば体重1ミリグラムだとしても、5,000トンなら何兆匹になるだろうかと想像してゾワゾワする。
それでやっと発電所1つ分だとすれば、すべてをまかなうには何京匹必要だろう。

それだけたくさんいたならば、見えるだろうか触れるだろか。
そう考えて、ゾワゾワゾクゾクする。


そんなわけで今日でおしまい。

今回はたくさんウソをついた。たくさんの見えないウソ。
だから次回はそれ以上の、たくさんの本当が見えるように。
そのように。

とまれみなさま、まことにありがとうございました。


そんな感じ。



Light and Shadow.


DSCN7060.jpg


前に使ったっけかな?
とまれ、この写真とはあまり関係ないけれどもね :)


帰り道、自転車をこぎながら、真横に流れる自分の影を眺めながら、光は影を作るけれど、光は影に映らないんだなあと、自転車のライトをしげしげ訝りつつも、そんな当たり前のことに気づく。

そして同時に、光は影を作るけれども、実は光が当たって見える部分こそが、単に光が照らし出す景色でしかなくて、影の部分は暗くて見えないけれどもゴロリと確かに存在していて、結局どうあろうともおかまいなしに確実に在るその様子が、よっぽど確かな感じに思えて、う~ん、なるほど! とか考えたりしている。
そういうことなんです。

その所為か、よく「影が落ちる」というけれど、実際は「光が落ちた」ために、その部分のモノが「見え易くなった」だけで、影の部分はどうあろうとも元からそこに在るのだけれど、単に「落ちた光」に切り取られて「見えにくい」部分になっただけだというその感覚が、妙な気分をザワザワザワザワ沸き起こすのです。

先ほどの帰り道の話で言えば、自転車のライトの明かりは影の中に「居れない」クセに、僕の目の前でチカチカチカチカ点滅しながら、オレはここだと主張しているクセに。
でも本当は影の中には映れないその光が、結局は確かなモノじゃ無いかもしれない可笑しさが妙に可笑しくて。

そうして、壁に映る僕の影の部分は結局は、僕が光を遮ることで、本来は壁に落ちるはずの光を「切り取っている」という事実とその感覚が、なんとも心地よいのです。
ああ、なんだかよく分からない。

要するに影の部分の方が本来は「見えない」クセに確実に存在するんだと。
「見えないハズ」のモノが「見えてないのに在る」瞬間て面白いなという、そういう考え。


そういうどうでも良いことをグルグルグルグル考える。





そんな感じ。








I boiled pasta for tomato souce.


夕食をどうしよう。
今から米を炊くのも時間がかかるし面倒くさい。
外食はお金がかかるしこの時間ではちょっと。弁当はもっといやな感じ。
それで結局、パスタとトマトの水煮を100円ショップで買ってくる。

多めの塩でパスタをゆでて。
その間にスライスしたニンニクを鍋底に広げ、オリーブオイルでゆっくりと、弱火で炒める。
タマネギとピーマンを薄くスライスして、鶏肉をひとかけ、こちらもスライス。
ニンニクの香りが出てきて色が変わり始めたら、鶏肉を敷き、ふちの色が変わるまで中火で焼く。
かるくキツネ色くらいになったら裏返して、その上にタマネギとピーマンをのせ、ふたをして蒸し焼き。
少ししんなりした頃にトマトの水煮を半分入れて、お玉で潰しながら煮込む。

これまででちょうど6分くらい。

この頃にはパスタのゆで汁も丁度いい感じになるので、お玉一杯分をソースに加える。
水煮とゆで汁で味付けは十分。
でもこれだけだとちょっと味が眠いから、ハサミで輪切りにした鷹の爪ひとかけら分を加えてもうひと煮立ち。
火を止めて、パスタがゆであがるのを待つ。
鶏肉がまだ赤っぽいかもしれないけれど、余熱で火が通るので気にしない。

これで2、3分。

パスタを湯からあげて皿に盛り、この前もらったクリームチーズをのせてみる。
その上からトマトソースをかけて出来上がり。

数少ない献立の中で、唯一すこし豪華に見える料理。
ちょっと薄味かもしれないけれど僕には十分以上。

ただ、もらったクリームチーズはとてもおいしいのだけれど、やっぱりもう少し塩気のあるチーズの方があうかもしれない。まあいいや。


今日は在廊。
スケッチブックを忘れてがっくりしていたけれど、たくさん知り合いが来てくれたから、たくさん話をした。


目の前で空白の時間のみを共有するやりとりをいくつか。
新しい交差もいくつか。
そういう日。


明日は日曜日で、まるで人も来ないだろうから、スケッチブックを忘れないようにしよう。
見えるものを見えないように。




そんな感じ。







I think about the word like below....


「高尚」という言葉が嫌いです。

この言葉を使う時、大抵の場合、目の前の物事に対する解釈とそれを受け入れることを拒否するニュアンスが含まれているような気がします。
つまり、「自分には分からないから勝手にやってよ」もしくは「あんた方には分からないだろうけどね。こんなにすばらしいんだよ、はあまったく。」という案配。
なんとなくね。

けれども、それはきっとコミュニケーションの拒絶で、いわゆる差別なんだろうなと、そんな風に感じたりして。
だから、それはきっと褒め言葉じゃないよ? 多分。
いや、きっとね。


そんな感じ。

It's redicuous to explain something for.... : /////


毎度ごぶさたしております。
皆様お元気でしょうか?

昨日はギャラリーで留守番でした。
今回は週末をのぞいて基本的にギャラリーに受付をお願いしているんですけれど、まあ色々ありまして。
週半ばは銀座は暇なんですよ。というのも、デパートが軒並みお休みですからね。
画廊目当ての方は週頭のオープニングか週末にかたまりますから、そんな案配。
まあこんなものでしょう。
もっぱら落書きをしてやり過ごしてました。

今日はたまっていたメールの返事だとか色々と片付けごと。
色々と考えますね。

唐突ですが、僕は「のだめカンタービレ」を単行本で読んでまして、これ本当にすばらしい漫画だなあと思ってるんです。それについてはいつか書きますが。

その中で、あるキャラクターが言うんですよ。
「君がそうやって言いたいこといっぱいあるみたいに、他の作曲家だって言いたいこといっぱいあるのにネー」って。

ギャラリーに居て、人と会って話をして。
結局そうして作品のことについて話をするんですが、なんかもう、そういうの本当にばかばかしいんですよ。ごめんなさいごめんなさい。

言葉というのは、分類の一種で声に出した途端に意味を限定していって、どんどん解釈を狭めてゆくものでしょう?
火って言ったらもうあの火しか無くて、あとは炎とか火炎とか暖かいやら灼熱やら、山火事だとか放火とか、あとは火の中の分類でしか方向性がなくなるわけじゃないですか。
そんな風に、話せば話すほど、意味が限定されていって、本当に伝えたいことのほんの一部分にしかならなくて、僕の意図からどんどん離れてゆくというかなんと言うか。
特に今回は解釈の幅が大きくなるように作っているのはそうなんですが、きっと僕の作品がいいかげんで難しいんでしょうね。というか根本的に………まあいいや、そんなことを言っても仕方がない。

ベクシンスキーという画家が居て、生前、彼は自分の作品は画面に現されたことが全てで、他に何も言う必要はない、と断言して、一切の説明や解釈を拒んだそうです。

その気持ちは良く分かる。
言葉であらわすことができるなら、言葉で代用できるなら、何をこんな風につくる必要があるのか。

僕の作品にはタイトルと、今回はもうおせっかいにすぎるくらいの、我ながらくだらない詩もどきのテキストを掲示しています。本当はもうあれ以上に説明は必要ない。それでも随分具体的に意味を表しているつもりで、正直出し過ぎなくらいだと思ってます。
僕は作品を見るときにそうした最小限のテキストが手がかりだと考えているから今回もそうするけども。ほとんどはぱっと見の印象が全てですよね。そりゃそうだし、出会いとしては僕もそれで良いと思います。
けれども、どんなに難解な作品でもほとんどの場合、タイトルの意味を考えることからその作品との、ひいては作家とのコミュニケーションが始まるはずだと僕は思っているから、印象だけで済ましてしまうのって、とてももったいないことなんじゃないかな……。
そうして考えた後に問いかけられた言葉であれば答えようとも思うのですが、なんというか……、まあいいや。

機会は平等に与えられているけれども、答えは問いかけたものにしか分からない。
そしてその答えは必ずしも理解できるとは限らないけれど、問いかけないことには何も始まらないし、問うことでいつか分かるときもくるかもしれない。
とかなんとか、どこかでそんなことを読んだような読まなかったような。

それが高慢でごう慢な考えだというなら、もうそれでいいです。
まあ、どうでもよいですね。僕もどうでもいい。

ある人が、みんなそこまで考えてないよと言いました。僕もそう思うし、自分自身考え過ぎかなとも思う。性分だから仕方ないけど。
けれども一流と言われる作品は、それが良いか悪いか、巧いか稚拙か、好みかそうでないかは別にして、作品という記号の中に、大なり小なり、すべて某かの意味を持っている。これは間違いない。し、「みんながそうならテメーはそこまで考えなくていいしそれって狭量だっていうのか。やたらに知性だとか個性だとか独創性だとか高尚だとかぬかして他と自分を区別したがるくせに、こういう special に突き詰めてゆくジャンルの議論に「みんな」とかいう「慣らす」言葉を使った時点でもうなしくずしでまるっきり今までの会話の意味がねえじゃねえか、終わりじゃねえか、そんなことも分からないのか、クソッタレ。」とか、思ったり。失礼。

作品に潜む意味を知った時、目の前にある記号にしかすぎないただの図版やビジュアルが、鑑賞者の価値観を大きく転換するきっかけになる。コンセプチュアルアートは図像学というキリスト教美術の流れを受けた欧米独特の作法なのでしょうね。
けれど、茂木教授が言う「アハ体験」のような、そうした価値観と視点の転換が、現代美術の面白みであり、ユニークな点だと思うんです。けれど。
まあいいや。もういい。

NYに居た時、日本人が経営するギャラリーにたまたま知己を得て、作品の写真などを見せました。けれども、写真ですし、本人が目の前にいると、タイトルなんか見ないんでしょうね。説明を求められて、説明をして、なんだそうかと。

ばかみたいですね。

もう本当に作品のことについてはあまりというか、現した言葉以上には話したくないんですが、つい話してしまいますね。
それで後でうんざりするんです。
ああ、何をあんなに話してるんだと。
そして話した言葉で全て現せたわけでもなく、逆に見当違いの補強をしてしまって、あとから気づいた不足分を取り返せないことを呪うのです。
相手との相性もありますしね。相性次第で伝わることも伝わらなかったり、発したつもりも無いことが何故かそのように解釈されたりとかなんとか。

ああ、だめだ。
何を書いても仕方の無いことばかりですな。

すみませんすみません。

ともかく、僕はべらべらとしゃべりすぎて、書きすぎている気がします。
長々書いても、知り合いですら「長い文章」というだけで読んでもらえないのなら、こんなばかばかしいことはないじゃありませんか。
今後はもう少し簡潔にしていこうかと思います。
僕自身、僕は言葉に頼りすぎていると思っているし。
それで分からなけりゃコメントでもメールでも電話でも何でもすりゃあいいんです。
論理的思考の文化が欧米アートのメインストリームではあるけれども。
それはきっと、これから廃れていく気もするし。
まあいいや、よう分からん。
もういいよめんどくさい。



そんな感じ。


It's opening now.


先週さすがにちょっと心配だったものですからイタリア人の元クラスメート2人にメールを送ってみたところどちらも別の地方に住んでるそうでひとまずは安心。


ところで、そのうちの1人が返信の中で「俺超しあわせ!」とか言ってまして。
なになに? 
「バーで見かけたあの日本人の女の子を覚えてるかい? 彼女は僕のガールフレンドになって休暇で今ここにいるんだよ!!!!




マジすか?

いや覚えてるしその子は僕も知ってるけれど、ニューヨークであのバーに行ったのって去年の11月じゃなかったけ? 君も僕のすぐあとに国に帰ったんだよね、確か?! すごいなあ。
イタリア人は本当にイタリア人でした。

同じ日に彼がバーテンの女の子を熱心に口説いていたことは秘密にしておこう。 とりあえず。



そんな今日この頃,みなさまお元気ですか?
おかげさまで、ようやく3回目の展示の初日を迎えました。
オーナーのMさん、友人Kさん、ありがとうございました。
せっかくの機会でしたのに搬入ではたいしてお手伝いできず申し訳ありません。
今後は少しでも役にたてるようにならなくては。

おやおや? なにかがおかしいような。
まあいいや。

とりあえずな案配ですみませんが、お時間がありましたらぜひおいでください。

そんな感じ。




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